宇垣軍縮(1925年)
(20080310作成)
第一次加藤高明内閣の陸軍大臣であった宇垣一成が、1925(大正14)年に実施した軍備縮小政策を「宇垣軍縮」という。
第一次世界大戦後、世界は、国際協調の気運が高まり、それに伴い軍備縮小への動きが進んだ。そこで、山梨半造陸軍大臣のもと、二度にわたり軍備の整理・縮小を実施した(山梨軍縮)が、これではまだ不足であるとした政府・国民の不満と、1923(大正12)年9月に発生した関東大震災の復興費用捻出のため、加藤内閣もこの動きに連動して、1925(大正14)年5月に宇垣一成陸軍大臣の主導の下、第三次軍備整理(宇垣軍縮)が行なわ、各省庁の経費削減を求める一方で陸軍三千万円、海軍五千万円の軍備縮小を要求した。
ここで宇垣は当初反対したが、結局、人員削減によって獲得した財源を陸軍備充実・近代化のために使うことを内閣に了承させた。
内容としては、21個師団のうち高田の第13・豊橋の第15・岡山の第17・久留米の第18の計4師団を廃止、これに伴い連隊区司令部16ヶ所も廃止となった。また陸軍病院5ヶ所・陸軍幼年学校2校も撤廃し、約32,900人の将兵と軍馬6,000頭が削減された。同時に宇垣は在営期間を2年半から2年に短縮することによって負担減とともに、予後備兵力を増大させるなどの措置を採った。
整理された4,000人の現役将校には特別資金を与えたり、再就職先としては中学教員の資格を与えたりした。そして、陸軍現役将校配属令によって全国の中等学校以上に現役将校が配属せられ、軍事教練が実施されることになった。
一方、その浮いた予算で、航空、戦車、化学・生物兵器などを充実させ、欧米列強に比べ旧式だった装備を近代化した。具体的には、戦車連隊・高射砲連隊各1個、飛行連隊2個、台湾山砲連隊1個の新設、陸軍自動車学校(東京)、陸軍通信学校(神奈川)、陸軍飛行学校(三重、千葉)を新設し、それに必要なそれぞれの銃砲、戦車等の兵器資材の製造、整備に着手した。
しかし、陸軍将兵が宇垣に抱いたのは、怨嗟の感情とも言えるものであった。
陸軍は、三次にわたる軍備整理の結果、将兵約10万人(平時兵力の約3分の1)を削減した。ところが、師団の数は維持した(つまり将官のポストは減らさなかった)山梨軍縮とは違い、宇垣軍縮は4個師団を削減し、将官を含む将校の首を切ったのであり、陸軍内部に深刻な衝撃を与え、宇垣に対し恨みを募らせた。またこの頃の社会的情勢は、第一次世界大戦中の好景気の反動で、深刻な不景気の中であり、金のかかる軍隊を無用の長物視していて、三度の軍縮はこの風潮に拍車をかけることとなった。
電車の中で、騎兵中佐の拍車が邪魔になると、土工がケチをつけて中佐を謝罪させたり、軍服着用での外出を控えて、私服で外出する将兵が続出したなど、このころほど軍人の株がさがったことはなかった。彼らはそういった屈辱を味わわせた張本人は宇垣だと信じ、彼を排斥するようになり、後に総理大臣になれなかった(宇垣流産内閣)遠因にもなった。またこの屈辱によって、後の軍拡というリバウンドを引き起こしてしまった。
ちなみに山梨・宇垣軍縮による陸軍省予算の削減の効果は、軍縮実施前と比較して1割程度であったという。海軍予算とあわせた軍事費全体では、一般会計の5割近くから27%にまで削減された。一般に「軍縮」と言われているが、実態は軍備整理だったというのが妥当である。
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(参考サイト)
http://www.geocities.jp/since7903/zibiki/u.htm